わたなべさんの青いめがね

点訳ボランティア22年目です

奥州旅行まとめ④中編

 前編の続きとして後編の間に中編で、少し歴史の復習として。

 「えさし藤原の郷」で奥州藤原氏の歴史、源義経のエピソードをあらためて知ってきました。

 

 源義経静御前

 奥州藤原氏3代のデータ

 奥州藤原氏初代・藤原清衡のデータ

 2代目・藤原基衡のデータ

 3代目・藤原秀衡のデータ

 義経とこの奥州藤原氏の関係は皆さん知ってますか?歴史好きな私なりに簡単に解説を。
 義経は、子どもの時に平治の乱(平家VS源氏の戦い)で源氏が敗れ、義経と腹違いの兄源頼朝の父・源義朝が殺されてしまい、頼朝は伊豆に流され、義経は寺に預けられて仏門に入ることを強いられるが拒否。武士として生きることを決め自ら元服し、奥州藤原氏にコネがある者の紹介で奥州へ。その時奥州を治めていたのは、藤原秀衡。秀衡は義経を迎え入れ、若い義経の良き後ろ立てとなる。兄・頼朝が平家を打倒する話を聞いた義経は、頼朝に加勢するために鎌倉に行く事に決める!秀衡は時期尚早と引き止めるが、義経の意志は固い。仕方なしやだがこころよく送り出す。そして頼朝たちとともに平家を打倒!「壇ノ浦の戦い」である。戦いで大いに活躍を遂げた義経は、朝廷から信頼を受け恩恵を賜るが、頼朝からは反感を買ってしまう!そして追われの身となってしまい、なんとか逃げまわって奥州にたどり着く。秀衡は受け入れ義経を庇護するが、病に倒れ後に逝去。間際に息子たちに「義経を立てて奥州を守れ」と遺言を残す。後継者の4代目・泰衡はその遺言に従わず、兄弟たちの義経擁立を破棄して義経を追いつめて弁慶に守られて自害。その後泰衡は、頼朝に攻められて家来に討たれてしまい、奥州藤原氏は滅亡してしまいます。
 色々と説はあるが、逃げ延びて海を渡って行った等・・・もし義経を擁立して、頼朝と一戦を交わしていたら、鎌倉幕府は?日本は?どうなっていたんだろうか・・・
 歴史には「If~」という別な想定があるが、その世界になっていたら我々はどう存在していただろうか・・・「なんで遺言どおりにしなかったんだよ~(4代目・泰衡)頼朝にビビッていたと伝えられてるがなんでだよ~」って思ってしまう私です。
 中尊寺金色堂の中には、奥州藤原氏4代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)の亡骸が眠っています。あの金色像の下に(泰衡は首だけ)。亡骸の状態を、えさし藤原の郷で紹介してました(上のフォト参照)。 

 奥州藤原氏の歴史を見聞して、タクシーで水沢駅まで行き、東北本線で再び平泉に向かいました。

 続く。